楽しいことを想像してみる

何か楽しいことを夜に想像してみる。

朝起きてから考える余裕があればその方がいいかもしれないが、そんな余裕のある朝はなかなかない。

したがって、夜に何か楽しいことを考える。そして少しほくそえんで眠りにつく。

明日にはいつも希望をもって臨むのがいい。

そして、いい夢を見れればいいのだが、夢を見るような寝方をする余裕もない時がある。

ほんのわずかな時間、そう、受験生なんて気を緩める時間なんてない。

だから、ほんのわずかな時間だけ楽しむ。一日頑張った自分になにか御褒美をあげる。

先にはもっといい御褒美が待っているから、せめて今はそれぐらいで我慢してほしい。

頭の中は常に自由だ。それを忘れずに。

疲れをいやすような寝方をしてください。睡眠不足は可能な限り避けてください。

ゆっくり眠ってほしい。明日はまた頑張らなければならないんだから。


 

得なのか、そうでないか

子供たちと接点をもつことが多い職業の身として。子供っていうのは面白い。

勝気な子もいれば、反骨精神の強い子、とにかく従順な子、全てに疑い深い子・・・

ジャンルなんてわけれらないほど皆が違う。

どの子も面白い。いつかは同じような表情をして、訳知り顔な笑顔を覚えてくだらない大人になってしまうかもしれない。

けれど、子供は違う。とにかく面白い。夢はあるし、希望も、そして若さと、まだチャレンジするだけの時間。

こんな人たちと接点を持つことができるっていうのは幸せなことだ。

そこで、そんな子供たちが勉強することを邪魔しているのって何かって考えることがある。

ゲーム、ネット、マンガ、部活、テレビ・・・・いろいろ考えるだろうが、左の中で邪魔してるのは一つだ。

さらに、もっと厄介なことがあるが、それはここには書けない。ただ、たくさん薄めて話をぼんやりと広げて言うなら、言える。環境だ。

子供たちのことを考えるなら真剣に考えて欲しいし、子供は世界の宝なんていうなら、もっと考えてほしい。

厄介で、手間がかかって、わがままで、言うことをきかない・・・それが子供でしょう。
妙に分別臭い子供のほうが気持ちが悪い。

そのことを前提として考えるなら子供を育てることに全力を注ぐのは得なのか、そうでないのか。

そんな表現はおかしいと思うかもしれないが、あえて使っている。次世代が今よりもすぐれているような社会。
このすぐれているという言葉もあえて使っている。

甘やかそうなんて言ってるんじゃない。子供たちには厳しくしていいんじゃないのか。

子供はペットではない。やがて大人になるんだから、もっと期待してあげたい。
いや、期待しようじゃありませんか。

たんすに入れておくような宝ではないけど、宝であることは間違いない。

 

受験生を励ましたかったんだけど

いろんなことが昨日はあったようで、衆議院選挙は国民に信託されたことなんだから、責任は国民に戻ってくる。

選んだのはあなたたちでしょう。(←誰が言ってる?)まあ、どう思おうがつけは国民に。

選ん人間が悪い。任命した人間が悪い。オイオイ。教科書か。

なんてことを考えつつ「公」というもののウソ臭さを感じる一日だった。

と、まあ、くだらないことはいいとして。(政治は大事だよ。でも、それに付属する選挙と○○家は・・・)

受験生は強気、強気、強気。いろいろ悩んで選択した自分の進みたい道がやっと開ける時期が近づいてまいりました。
幸いなことに、誰かに委託したものではない自分たち努力が全てを結論付ける。

んんん、なんて潔い気持ちのいい話だ。おべっかもいらない。嘘もいらない。かっこつける必要もなければ、健全なふりをする必要もない。

もう悩む時期ではないから。ひたすら自分を信じてくれればと思う。費やした時間があなたを裏切らない。

ちなみに「健全な肉体に健全な精神が宿る」なんて言葉を信じていない。

信じたいとは思うが、それって関係ないでしょう。

健全な精神なんて言葉も微妙だけど、あるとすれば勉強してても、何をしてても宿るよ。

逆もまた然り。

狭い視野で枠組みとかグループ分けはやめてほしい。人は周囲の影響で変化する。少なくとも子供の頃は。

つくづく、教育って必要だなって感じた一日でした。ねえ、センセー。

選曲に深い意味はあります。けれど、好きだっていうのもホントの気持ち。

 

努力

必死にノートの上で鉛筆を動かす子がいる。全員ならばうれしいがそうもいかない。

動かしている子のなかでも、成績に比例すること、しない子がいる。費やす時間は同じとして。

この差はいったい何だろうか?

頭のデキのよさかって?そんなことはない。

一番の理由は集中力なのだ。

手を動かしているが、頭の中では別のことを考えている。あるいは一字一句首ふり人形のようにただ文字を羅列しているだけ(このパターンは非常に多い)。

集中力というのがここでクローズアップされることになる。そしてそれを継続すること。

んんん、簡単にはいうけど・・・難しいことだ思わずにチャレンジしてみて。

一言でいえば「慣れ」ってことに帰着するかも。

一人で頑張らなければならないことだけど、バックアップも必要なんだろうなと思う。
子供に強いてもかわいそう。応援してあげてほしいなあ・・・・

勉強だって、だれかが強制しなければならない時期とかってあるんだと思う。

でも、それがずっとだと互いにたまらないけど。


 

ウチワ

内輪でごちょごちょとやるのって周囲からみてると、あまり気分のいいものではない。

自分たちの居心地のいい場所で、話しやすい人間とだけごちょごちょ。

仲間内だけでいるのなら問題もないのだろうが・・・・

ちょっと拡大解釈すると、自分たちだけで評価し合うのっていうのもいかがなものかなんて感じる。

くどいようだが、その世界だけで話をしているのなら問題ない。でも教育では?

例えば学力テスト。あれって誰が評価してるんだろうかと思う。躍起になって判断しているがそのあとは?

全国一位とか最下位だからとか、でもそのあとの進学はほとんど影響していない。

指導者の努力の結果?・・・・・それが結果。

あと謝罪するのに泣く男。別に女性蔑視ではない。(そもそも、そんな立場にある女性は泣いて謝罪しているのなど見たことが無い)ただ、責任ある立場のものが泣いて謝罪しているのは自分たちの世界で、聞いてくれている相手に何を求めているのか。どんな気持ちで話を聞けというのか。

泣いて勝とうと思うな。子供の頃に言われなかっただろうか。

泣いて解決しようとしているのでなければ、なぜ?

責任ある立場の者は泣かずに毅然として欲しい。

人前で泣くほど厚かましい人間が責任者なんていうのは・・・・

自分たちが公の人間であるということを思い出してほしい。そして何をしなければならないかを。

そういえば今年、泣いて謝罪して話題になった人間がいた。あさましい。

言葉はいい。行動で示してほしい。

今日はある謝罪する責任者の態度に怒りを感じてしまった。

 

信用するモノ

何を信用するのかっていうのは、とても難しい。

信用したいものを信用する。これが実は一番多いのではないか。
それで、社会がうまく運営されているのならいいのだと思う。

正解が正しいわけでもないし、嘘も方便なんてこともあるわけだからなおさら判断は混乱してしまう。

幽霊は存在するのだと言う人はそれを信用しているのだから否定されることはないはずだし。

そんなものは存在しないなんていう人にはなぜか信用する人間を攻撃したくてたまらない習性がある。そして、彼らは存在しないということを信用しているわけだ。

でも、その真実は誰にもわからない。科学的に証明が、証拠は、俺は見た、祖母が見た、なんてことを言いあってもこの結論はおそらく永遠にでない。・・・・ことを願っている人間がたさんいる。

まあ、このような例は別として、社会生活を渡っていく中ではもう少し深刻なことがたくさんある。

信用すべきことは何かという判断をするためには、情報はたくさん入れるべきだ。それすらも何か(○○とか××)のフィルターをとおしたものだけを入れている人間にはわかってはもらえないことだろう。

「百聞は一見に如かず」これはケースバイケースだ。無理なことを自慢げに言うやつには・・・・
中学生が早いとするなら高校生はどうだろう。それぐらいの知恵とアイテムはもっているんじゃないのか。

根っこの部分をはっきりさせて育成することが自分のためだと気付いてほしい。

信用することができたら、まっしぐら進んでいく。

間違ってたら?・・・その時はその時だ。

そうそう「二兎を追うもの一兎を得ず」なんて言葉もある。

一時でも早く踏み出した人間は、その分先に進めるんだ。競争を煽っているわけではない。
何かを成し遂げるためにはできるならそうした方がいいという意味だ。

これは私の本心とは違いますが、向ける方向を変えれば・・・

ちなみに私は○○が嫌いだ。

 

雪が・・・・・・とはいっても毎年の出来事。ちなみにこの雪って言うのが降り始めはいろいろ変化しても解けるのは大体同じ時期なんです。

いろんな交通障害があったりもするんだけど、まぁそれはそれとして。

今回は夢の話。

昨夜の観た夢は何てことではない。「こんな夢を見た」巨匠黒澤明の作品のような夢もファンタジーで楽しいことかもしれないけど、他人が聞いて一番つまらない話っていうのもそれだって言うのもよくあること。

してがって、違う「夢」の話。

大人(何歳からかは定義は難しい)になると現実的なことに目を向けて、子供は夢や理想に関心を向ける。なんていうけど、子供達は結構現実主義なんだなあ、何て思うこともある。触れ合っているのが中学生や高校生が多いから、そのちょうど過渡期の彼らはそれらが混在しているからかもしれない。

だから、この時期って大切なんだと実感もする。その夢が間違っていても変更できし、いくらだってやり直しがきくって言うのはなんともいい時期だと思えてならない。こんなことを言っても、子供達には実感が無いだろうが、齢を重ねた人間からすれば共通の意見だろう。

いい方向に進めればそれに越したことは無いだろうし、悪い方向に進んでも若気の至りなんて言葉で済まされる。それぐらい周りが余裕を持ってみてあげることも必要なんじゃないかな。

夢が挫折に変わっても、それは非難することには当たらない。問題はそこからどうやって立ち直るか、そこに意見を投げかけてやれるのが大人なんじゃないかな。親じゃなくても近くに居る大人がそうしてやればいい。そんなこと思ったりします。

ただ、夢を見るならかなうような努力をして欲しい。そのためには助言も必要だし、自らの情報力も必要なのだ。

口に出すだけで何も努力しないなら、それは寝ているときの「夢」と変わらない。

人に聞くのは簡単だけど、最終判断は自分なのだということも加えておきたい。

ちょっと安直だけど

いいこと

つれづれなるままに日々を過ごしていても、いいことなんていくつでもある。それがちっぽけなことか、とてつもなくすごいことかなんてあまり関係ない。こんなことにエナジー保存の法則があるのかどうかはわからないが、少なくとも毎日あることは確かだ。ただそれに気づくか気づかないかは本人次第ということだ。

今日も少なからずあった。個人的なことなので具体的な例はかけない。

ただ、自分の説明がわかってくれたと確信できるときはその夜いい気分で過ごせる。

これは塾なんてやってれば当たり前だろうと言われるかもしれないが、解法なんかだったら確かによくあるどころか毎日だ。

けれど、それを本当に理解してくれたかどうかは話が別。これはなかなか難しい。

こっちの力不足もあるだろうし、相手の聞く気もある。ただ、その理解の数が多くなるだけ当人のレベルは明らかにアップしてくる。

この瞬間は何ともいえないいいことだ。そうなってくれた子供たちの目は明らかにわかる。もちろんわかったふりとの違いも。

合格が最終目的の仕事だから、それはうれしい。ただそこまでの過程で子供たちが進歩していく過程を見ているのは大きな喜びだ。

そして、それはその子がステップアップすることにもつながる。時間はかかる。けれど、そんな楽しいことは他にはあまりないだろう。

それが、私の仕事だ。これが私の仕事だ。

だから、いつも真剣勝負。

さあ、かかっておいで。面白いから。


 

フツウ

雪で道路がフツウになった。の方じゃなくて、「それってフツウだよね」(←ちょっとバカっぽく)のフツウ。

普通この時期には雪が積もる。(納得)
普通はそんなことしない。(微妙)
普通は三時間は勉強する(間違い)

だいたいにおいて、普通ていうのは「ありふれたもの」とか「普遍的な」なんて意味があるようなのだが、あまりにも普通に普通って言葉を使い過ぎな気がする。

勉強するという意味において「普通」は存在しない。以前もかいたが、勉強なんて目標があって初めて程度が決まる。
だから、周りと比べてもしょうがないのだ。その個人によって「普通」が決まる。

特別なら、普通って言わないのではないか?
そう、その通り。けれど普通っていう抽象的な言葉で納得してしまう○○○者がなんと多いことか。

倫理観とか道徳観は少なくとも日本人共通の普通があってほしいと思うが。
私の携わることにおいてはそんなものは存在しないのだと声を大にして言いたい。

周りよりも頑張って成績の良い子たちにいたい。君たちは実は阻害されているのだと。普通という言葉のマジックでほめられたり、認めているような言葉をかけられたり。でも、それってほとんどが適当で、根拠のない言葉。(言い切る)
中学生なら450ぐらいもとれば優秀だって言われるだろうし、高校生なら順番かな。
志の高い子たちはそんなマジックに惑わされないように。

頑張りたいなら、もっと自分で調べて情報をゲットするべき。かわいそうだけど、それを知らずにだまされたと思ってもだれも責任なんてとってくれない。そして「普通」なんて言葉を平気で放つ人たちの仲間入り。

少し辛辣かな。でも、よく感じることだ。

でも、最後は気持ちよく終わっておきたいので。どれだけ知っている人が今いるのかな?

やはり、今日の最後はこれで締めることにする。

 

頑張る人、頑張れない人?

頑張らない、頑張れない。「ら」と「れ」。この違いは大きい。
当塾では「ら」の人には厳しくします。「れ」の人には原因を考えます。どっちの割合が多いかって?

完璧に「ら」の人が多い。
どちらにしても結果は同じだということに気づいていない。そのくせ、妙な自信だけは持っている。その結果「ら」の人間は逃避理由を考える。そんな知恵だけは多少持っている。それでだませる人間を探して、自分を憐れんでもらってごまかしている。

「れ」の人はなぜかわからぬまま悩む。自分には能力が無いとか、ひどい場合は馬鹿なんじゃないかなど。
そんなことがあるわけもなく、その本当の理由をひたすら隠して悩み続ける。

すくなくとも当塾に来ている人間に関しては、その違いははっきりわかっている。そしてその対処はしている。

中学も高学年になり、あるいは高校生にもなり、それでもごまかし続けれると思っている「ら」の人間は甘えるなという言葉をささげたいし、

「れ」の人間は対処を考えよう。大丈夫だからと言ってあげたい。

基本的にこっちは真剣だ。

ただ、これも言っておきたい「ら」を続けると「れ」になるよ。

二曲、プレゼント。