新年と言うよりも新年度と言う響きのほうに重きを感じるようになったのは、こんな仕事をしているからかもしれない。
けれど、とりあえず今年の計を考えるのは毎年やっている。
具体的に、あれをやろうとかこれをやろうとか決めれればいいのだが、それほど几帳面な人間ではない。
そこで、いつも一言で何かを考える。
そして今まで何度もつかった計として、今年も決めたドラスチック。
これ、一番ビビットな感じがする。静かに穏やかになんて考えることができない。
だかららこれ。
そして、これ。
旅立てジャックっていう邦題
いまやったら?
なんだか、日本中が特別の意識に取り巻かれている今、ふと机に座ってみるのはどうだろうか。
なんだか、すごいことをしているような気がするかもしれない。年末から一瞬で新年になるこの時、机に座ってみたら?
なんだか、すごく自分がストイックで頑張っているような気になれるかもしれない。
そして、静かに目を閉じていい未来を想像してみる。最高の未来を。
できたら、この音楽聴いてみてください。
今年の反省
そんなことしない。
今年は自分ができることをきちんとやった。これ以上できるかもしれない。
だったら、来年頑張るかもしれない。
でも今年に反省はしない。そんなことするなら来年頑張れることを考える。
あるいは来年したいことを考える。
終わったことをグダグダ言うのも聞くのも嫌いだ。
次を頑張ろう。常にそうやって考えている。
何をしようがそれはありのままの自分だったわけだと思う。
来年・・・楽しそう。
楽しくやろう
わからないから
わからないから面白い。
それにしたっていろいろある。例えば、手品。最近はもっとしゃれたイリュージョンなんて表現もあるが。
あれは種を知ってしまえば面白くない。上手にだましてもらってくれて楽しめる。
オカルト。わからないから面白いとは言わない。わからないから怖い。あるいは信用しようとしない。理由もわからずなら、どちらも大差ない。
わからないことを、わかろうと努力すれば、いずれわかってしまうことがある。だったら、つまらないじゃないかって?
そんなことはない。むしろわかっていることの方が少ないぐらいなんだから。
だから、次々とわからないことは増えてくる。そう、知れば知るほどわからないことは大きくなっていく。
そしてまた、それを知ろうと努力する。
いわゆる好奇心はこうやって大きくなる。
しったかして画面を指でスライドさせる輩の話は、だからつまらない。
言葉の通じない人間と話をしてるんじゃないんだから。
何に対して好奇心を膨らませるか?
それは個人の好み。
こういった面でも勉強は必要なのかもしれないと思う。
それは、ある種のマジックのように楽しい。
入試改革
例えば英語が試験からなくなる。これはすでに始めている学校があって、独自の資格試験のような形を設けているようだ。
やがては英語が試験として無くなるかもしれない。これはずいぶんと前から中教審あたりで話題になっていた。
英語が必要ないとはまったく思わない。ただ試験の必要があるのか?とは思う。
理科は・・・あった方がいいんじゃないかな。じゃないと科学もどきにだまされる人間が増えてしまう。
それに日本って確か技術大国だったはず。だったら・・・
同じ意味で数学も必要じゃないかな。
社会は・・・・近代史ぐらいはね。
国語は必要でしょう。ただ、設問の形はいろいろあると思うけど。
などと好きなことを言ったところで、改革を行うのは受験エリートだった人間たちの年老いた人たちだから・・・
受験なんてなければいい。
勉強したい人間はみな合格させればいい。
一発の試験で判断するな。
それぞれ意見はあると思う。でも、既存の制度はすぐに変わらない。
もし、変えたかったら、受験して決定できるようなエリート集団になってそんな会議に加わるしかない。
ぐるぐる回る矛盾はずっと変わらない。
だから、考えても無駄。
今、与えられた条件の中で頑張るしか術はない。
それは泣きごとでもあきらめでもない。前向きに向かおうじゃないですか。
おかしな推薦ではなくて、自分の力で頑張れた方がいいでしょう。
自分で考えて、自分で頑張れる。自由って素晴らしいと思おう。
やる気がでない
勉強する気が起きない。これは勉強しなければならないという気持ちがある。
勉強したって・・・・。これは強がりか、他の目標がはっきりしているか・・・逃避
やる気にならない場合、周りはどうするべきか。放っておけばいい。
それじゃ、なんにもならないだろうって?
そう、なんにもならない。だから、人は勉強することを進める。
なぜ?
勉強すればこんないいことがある。あんないいことがある。いやいや、そんな素晴らしいことなんかないよ。
でも・・・・
ここからが肝心。たいていの大人たちは自分たちが子供の頃はもっと勉強したなどと言う。
子供はそれを聞いて自分の親は立派だなと幼いころは尊敬する。ところがそんな頑張った親の姿を見てそんなものかと気づく時がやってくる。
あるいは自分は勉強ができなかったから、お前には勉強して立派になってほしいなどという大人がいる。
勉強したって立派にはならない。立派な人間と学問には何の関係もない。
勉強すればいいところに就職できて・・・・またまた、そんな嘘を言う。
勉強(ここでは受験勉強)したって立派にはならないし、たとえ東大に行ったからと言っていいところ?に就職できるとは限らない。
やっぱり勉強なんて意味ないじゃん。という結論になってしまう。
つまりこれが今の教育の問題点だ。
打算的な理由を陰に隠し、暗黙の了解できれいごとを並べる。
その号令でハメルーンの笛吹き同様、一目散に突き進む。
それじゃ、お前はどう考えているんだって?
勉強すれば楽しいことが増える。
どんな?って
それはやってみなきゃ分からないよ。自分で探してみればいい。と、突き放す。のがいいと思う。
でも、なんでもそうだけど、初めは強制じゃないのかな。なんてことも思う。
関係なし。好きなだけの曲
雪かき
雪かきとかけて、受験ととく。その心は、やがて春が来るでしょう。
お前は笑点か。そもそも、全く違う。
雪かきは毎日やってもやっても、次々と降り積もる。ここをやったと思えばあっちに溜まり、そっちをやればこっちが積もる。物理をやってれば英語が残り、英語をやってれば・・・・
雪かきをしなければ道路に出ることも困難。勉強しなければ受験に合格できず、次のステップに進めない・・・
あれ、意外ににているかも
ただ一つ大きな違いは雪かきは行政がやってくれたり、金さえ出せばやってくれる人がいる、もちろんボランティアも。受験は自分が努力しなければどうしようもない。そう、自分が努力しなければどうしようもならない。
仲間と一緒に手を取り合って、なんていう輩がいるが、受験はそんなに甘いくない。そもそも全員が失敗することも、全員がうまくいくこともない。
受験は孤独なんだ。
けど、同じような志をもつ人間が周りにいたら・・・それはライバルだろって?
いやいや、そんなことはないライバルはだから自分だって。
シビアなことをいうようだけど、自分に勝たなきゃどうしようもない。
辛いんだよね。他にも辛いことなんていっぱいあるだろうけど、立場上彼らの辛さは毎日目にしている。
でも、それだけじゃないから。頑張りましょう。
これじゃ、救われないから
きっと春は来る
アンダープレッシャー
身体の調子はいいですか。そうですか。それは結構。
机の周りがとっちらかってませんか。頭が整理できてればそれでオーケー。
またなんちゃら寒波がやってくるっていうけど、大騒ぎするほどのことなのか。フツー←バカっぽく
世間では赤とか緑とかの飾り付けを多分片づけているはず。最近は欧米化で飾り付けをずっと外さない家もあるようだが・・・
次は年末正月じゃなくて受験。
プレッシャーをかけてるんじゃない。
不安? それは十分努力してきたから
プレッシャーにつぶされそう? それは十分準備してきたから
怖い? それは賢いから
と、言うわけでアンダープレッシャー
クリスマス
くりすます。クリスマス。X’mas。Christmas。これが正解。
別にクリスチャンじゃないからといって。この日を祝ってはいけないなんておもわない。
むしろ親しみさえある。それ系の幼稚園で過ごしたことが影響しているかもしれないし、親が買い与えたディズニーの絵本が影響しているかも、それにもしかしたらアメリカ映画のせいかもしれない。
まあ、それぞれの楽しみ方をするための一日だと思えば名前なんてどうでもいい。
日本には誰かのことを思って何かをしようとする古来からの行事はない。(私の浅学かもしれないが)
ただこの時期っていうのが、いろいろと忙しいことが重なるのになんて思った時期もある。
けれど、静かな聖夜を過ごすことに魅力を感じるようになった。
どうだろうか。一時眼を閉じて誰かを思うのは。できたら憎しみなしで、怒りもなく、静かに・・・
なぜか、クリスマスソングではないんだけど今はBIG O
R & Bっていいなあって思う時期がある。
日本だと演歌になっちゃうのかな。
でも、それを聞いて育ってこなかったから・・・
Merry merry christmas
幸せってなんだっけ
「豊かな心」と言えばもっと若い頃には鼻で笑っていた自分がいた。
何それ?って感じ。でも頭の中ではなんとなく理解はしていた。
そして今、照れることなくその言葉を放つことができる。
何をのぞんでいるかと問われた時、何と答えるか。
今一度考えてみる。そんな年末を迎えるようにしている。それは毎年頭の中での儀式。
幸せだけじゃない。現状について自分に問うてみる。
答えを出すんではなく考えてみる。それでいいのか?本当に?ごまかしてないか?
いろいろと考えてみる。どこでもいつでも自分でできる儀式。
来年はどうしようか。どんな風に頑張ろうか。そんなことを頭に浮かべる。
六次の隔たりでつながる世界の人たち。
それのどこまでが自分に、あるいは自分が影響するのか。
いま、目の前にいる、触れている人たちぐらいはお互いにいい影響を与えあいたい。
そんな年末でもある。
今年もそろそろ終わる。何かが終わるのではない。今年という区切りが終わるだけ。
うまくいってたたら、継続を望めばいい。
そうではなかったら、いい区切りだと思えばいい。
忘年なんて必要ない。全ては自分のこやしとなるはずなんだから。