といわれたことが過去に何度かある
「俺は藁か」と苦笑いするしかない
よくよく話を聞いてみると
困っているからどうしようもないから相談しているのではなく
それはそれぐらい必死でという思いを訴えたいということなのだとわかるのだが
正直、いい気分ではない
言葉は大事だと常々思ってはいるが
やはり、多少の学習は必要なのだと感じずにはいられない
それではどれぐらいが必要かということになる
たいてい大人になれば基準は自分になるから
それで、決めることになることが多いと思う
つまり、世間一般でよく使う
「ふつうは・・・・・」
というやつ
だから、「ふつう」というやつはあてにならない
同じ価値感覚を持つ仲間のなかでならそれもいい
ただ、これから社会を担っていく子供たちは
そのふつうをどこにするかというので大きく変わる
まあ「ふつう」は自分を「ふつう」だと決めたほうが
楽だし「ふつう」だろう
とふざけている場合ではないのだが・・・・
永遠の過程
これが信じる指針