集中力という見分けにくいもの

国立の二次試験も終わり

あとは公立の高校入試

ということで、今ここに受験生に向けてなんてことを書いても・・・・

ということで、集中力というものに関して感じていることを話してみたい

真剣な顔をしているから集中しているとは限らない

子供たちを長年見てきて感想として

集中しているときは皆自分が今どんな顔をしているかなんてことを気にしてもいなし

姿勢だってめちゃくちゃ

体と顔が別方向を向いている時だってある

それでも集中している子というのはしっかり集中している

逆にこっちをじっと見てはいるがまったく集中していない子だってある

形はどうでもいい

集中している子ははすぐに結果に見える

今に始まったわけではないが

集中している子

この場合はもちろん目の前の勉強に関してで

たとえるなら、頭の中で帰ったら何を食べようとか

何して遊ぼうかというようなことで頭の中をいっぱいにしている子は

そっちに集中しているわけだから

違う意味で集中力はあるのだろう

そういう観点からすれば、集中力は誰でも持っているということになる

であるから、関心があるかどうかということが問題なのかもしれない

先ほどの例のように違うほうに集中する子達は、そっちが大事なことで

優先順位の上位に勉強以外のことがあると考えれば理解しやすいかもしれない

何にでも集中力があるというのは関心を持つことが多種多様にわたっているということかも

そこで勉強に関して集中力がある(関心がある)子はどんな特徴があるか

端的にいってしまえば、「何度も同じ解説を必要としない」

これが結果として現れる現象

それは頭がいい子の場合だろうなんてことを思う方もいるかもしれない

スマホは?PCは?車の運転は?ゲーム操作は?

どんな子でも覚えられないという子は少ない(勉強と比較して)

それは、生活に必要だから・・・・・

そう、必要だから彼らは覚える

つまり、必要ではないと思っていることは・・・・

そう、だから関心があるかどうかということに尽きる

子供のころ、国語の授業で楽しいと思ったことが記憶にはない

同じく推薦図書などという読書感想文用の書籍もつまらなかった

個人的には物心ついたころから読書は好きだったのだが

どうも、どうもそれらはつまらなくてしょうがなかった

あるとき、「目黒の秋刀魚」という落語を聞いてその理由がわかった

彼らの指導するのは鑑賞ではなく解釈なのだ

だから、油を拭い去った秋刀魚のようなものだったのだ

さいわい、そんな授業を受けていても読書が嫌いになることはなかった

関心をそがれることがなかったのはそれ以前に国語というか読書にすでに関心があったからだと思う。

そういった意味ではそんな環境においてくれた両親には今でも感謝している

さらに、嫌いだったことを書き連ねると

漢字練習(しかも、回数指定)

掛け算の筆算練習

英語の単語練習

社会の白地図の写し

そういったことを強いる一人勉強

これは、上記の理由とは異なる

ただただ、悲しくなる、むなしい、ここは近代日本なのに・・・・

そんなことに関心なんて持てなかった

ただ、必要ならば自らそれをしなければならないという意見には賛同する

だから、必要な分はやった

もし、子供に勉強に関心を持たせたかったら

まずは、すべてが必要で、すべてが大事ということを強いないほうがいい

やらなきゃいけないことはやっておけばいいし

やる必要があるならしっかりとやればいい

矛盾という言葉の意味を知らない子でも

不自然なことに疑問は持つ

大人のごまかしや偽善は気づいている

子供たちは大人が思っているより

ずっと賢くて、ずっと幼稚だ

それらが頭の中で葛藤しあっているのが子供だということに気づいてほしい

関心を持ってほしいなら、もっと本格的な学習を示せばいいと思っている

過去も現在も未来はまだ予言できないけど

そうやって子供たちに勉強というものに接してもらうことで

興味を(関心を)持たせてきた経験から言えることだ

面白いと思えなければ何事も進歩はないと思っている

すきこそ物の上手なれ

 

 

投稿者:

zyukutyou

青森市で学習塾を経営かつ指導しています 数学ならというキャッチフレーズに恥じない結果は出していると思います 趣味のことなんかも書きたいと思ってはいますが、書きません。 と言うことで、青森、学習塾、無限塾で気にとめていただけたら・・・

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