昨年のことになるが小朝の落語を観た。新宿末広亭で
落語は子供ころから好きで随分と聞いてきた
落語といえば「笑点」ぐらいが目に触れるぐらいかもしれないが
エアチェック(この意味が通じるだろうか)して聞きためたカセットからCDに変わった
落語は聴くだけでなく観るものなのは理解しているつもりだが
寄席に通えるような環境ではないし、映像で流してくれることも少ない
そこで、「ながら」で聞く癖がついてしまった
いろんな噺家を聴く
すでに逝っちまった(彼らは結構乱暴な表現をする)噺家が多い
寝るときにCDをかけっぱなしで聞くことが多くなった
米朝、枝雀、小さん、志ん朝、談志・・・・
このあたりがメイン話術の妙がすごい
人に話を聞かせるという意味ではプロのすごさを感じさせる
「間」
これがすべてなのだろうと思う
ぼそぼそとつぶやくような話し方をする噺家はもちろんいない(テクニックとして使う方もいるが)
あくまでも趣味の話なのだがどうせ聴くなら名人といわれる人の話を聴きたい
それに話をするなら面白いか中身があるかどちらかにというのも学んだ
それは常に心掛けている(できてるかどうかは別として)
生業の中にしゃべりが含まれる末端のものとして
先にあげた噺家の中で寝るときに最も適さないのは談志
話が、言葉が生きてしまう
次は枝雀かな
騒がしい
でも、みんな好きだ
同じ題目でも噺家によって誰の流れかわかったりする
この題目は誰から学んだのだろうと察しがついたりする
必ずしも師匠からとは限らない
そして噺には「まくら」というものがある
その名人という人もいる小三治などがそう
題目に入るまでにいろんな話をする
一見無駄なようだがなかなかそうではない
話術のプロたちの噺を伝統芸能として埋もれないようになってほしい