相対的に見れば

小さな砂山から見た岩木山は高い

岩木山から見た富士山は高い

富士山から見た・・・・・・

高い=「いい」

ということはいい難い部分があるので

それがイコール評価にはならない

ただ、そこで考えるのは基準をどこにするかということ

それによって相対的な意味が変わってくる

そこのところがいろいろと難しい

話をする場合にはそこの部分の認識の違いのすり合わせをするしかない

価値観の違いと一刀両断できるなら簡単だろうが

そうもいかない

そもそも、価値観の違いと言って話をやめたらどうにもならない

だから難しい

ところで、何をいいたいのかということだが

そういうことなんですよね

相対的が難しいから絶対的として判断できれば

それはわかりやすいんでしょうけど

それって、非人間的な感じがしないでもない

では?

そういうことなんですよね

ただ、評価として判断基準にするひとつの得策として

社会がどう見ているかというのは

わかりやすい気がしています

なるべく大きなコミュニティー、大きいなら大きいほうが・・・・

そういったことを考えると

安易に「おめでとう」なんて言葉は発せない

特に受験に関しては

同じように「残念だったね」とも

だから、いわない

この空間を知っている人なら対応を知っていると思う

誤解を招くかもしれないけど

そこまで、愚かな言葉を発するつもりはない

いざというときの言葉の選択は間違ってはいけない

何もいわずに深い考えがあるような振りをする愚者も信じない

きれいごとを並べ立てて自己満足するやつはもってのほか

どんな判断をするにしろ

まだまだ先にいろんなことが待ち受けている子達に

受験の○×で判断するより

それをがんばったことに評価をしたいと思う

それが、近くにいる大人の役目じゃないのか?

そして、次の動きをどうするか

このことがもっとも大事

受験ってそういうもの

そしてもうひとつ重要なこと(これは当人に)

自分の希望ぐらい自分で決めたら

そのために情報収集するアイテムはあるだろうから

そうすれば相対的にみて何が自分に必要かわかると思う

幾重にもカバーしすぎたら

わかりにくくなってしまった